2018年01月15日

濃密

当時のクラスメイトの顔や名前は一切記憶にないというのに
未だに7人の悪魔超人や地獄の6騎士、黄金聖闘士の名前は
ごく自然に出てきてしまう自分にしてみると
週刊少年ジャンプの50周年のアニメリミックスのCDは
非常に感激するとともに歳月の経過を思うしかなかった。

テレビサイズとはいえ、BORUTOに至るまで50曲入っていて
レーベルや権利関係も考慮してアレがない、これがない、というものも
掲げていくとキリがないとはいえ
第一弾ということでGetWildが収録されていたり
ライジングレインボウ、Can doまで連ねているだけで満足だ。

ファミコンジャンプというテレビゲームが
週刊少年ジャンプ20周年で出たというのが
昨日のように思えなくもないし、
当時は初期連載の漫画を「随分昔のもの」と思っていたのに
今日に至るとそれ以上に
昔の作品となってしまった聖闘士星矢やキン肉マン、キャプテン翼を
ごく普通のものと思っている自分がいる。
これら三作品は今日も連載が媒体を変えて続いているし
キャプテン翼はシュナイダーとの再戦が実に30年の歳月を超えて実現している。

メディアリミックスを積極的に行い
少年誌として後発的な立場にあった
少年ジャンプが発行部数を伸ばしていったものと
タイアップしていったアーティストをはじめとした戦略というものや
とりまく社会構造という部分が
この一枚に濃縮されているといっても過言ではない。

必ず主人公の名前が歌に出てきたり、
ストーリーに立脚した歌詞だったものから
幅広い年代に受け入れてもらう戦略的なものから
アイドルをはじめとしたアーティストとタイアップし
1年を通じて変わらない主題歌というものから
半年、1クールへとそのサイクルを早めて相乗効果を弾き出して
アーティストの発掘や安定した売り上げの確保を行い、
ごく自然に広がっていく市場から
限られた市場の中でいかに機会を創出するように至ったのかというものが
こういうところに顕著であるとともに
少子社会が背景に絡んでいる点は
社会構造的なものからも読み取ることができるのではないだろうか。

80年代から90年代初期というのは
経済的な格差が一番少なかった時代で
第二次ベビーブームの子どもたちが小中学生となっており
こういう戦略が重なり合った部分があった。
ジャンプのみならず、コロコロコミックなどを引き合いに出しても然り。
そこから先、人口ピラミッドが先細っていく傾向にあるところで
魅力あるコンテンツづくりと
市場としての漫画、アニメ、経済というものが看過できないものとなり
それを同時に引っ張ってきたことが
良くも悪くも今日に至らしめていると思われる。

実際に芸術として文学的な価値として
格段に昇華されてきているのは事実だけれども
いい歳してアニメ、漫画を、と言って
そういう年代の購買層を弾き出すと
そこで笑えないくらいに経済落差で物事が行き詰まることになる。

1年に1回ずっと据え置きの主題歌を買うよりも
1クールごとに主題歌が変わるCDを買う方が負担が重いというのは
誰の目にも明らかで
これを可能にしているのは購買層の年齢を高くしたり、
兄弟がいることよりも一人っ子だったりしている。

口ずさんでみれば
80年代から90年代、00年代との差って明らかなこと。
鼻歌で歌えないというのは歳のせい、というものではないくらいに
嗜好化に拍車がかかっている傾向にある。

意外にこういう文を綴ると
真面目に漫画やアニメを見ている小中学生時代を過ごしていたんだなぁ、と。
あの日、あの時、そういう状況でこれを見ていた、読んでいた、という
そういうところまでたどり着くのが少なくない。
非常にムダなことにエネルギー使っていたという部分もあるけど。
部分もあるけど、というよりも、そういうものばっかりだ。

昨今もアニメはそれなりに見てはいても、先週の話が覚えていなかったり
未だに主要の登場人物の名前がわからなかったり、
職場で曲が流れていてもその主題歌だと気づかなかったり
「観た」という既成事実しか残らない有様。


posted by 小林 慶太 at 23:50| 千葉 ☀| Comment(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月02日

精進せいよ

ミスター味っ子、ブルーレイが出ることになって
特別に地上波で一話だけ放送された。

精進せいよ、という言葉はこのアニメで覚えた。
原作はアニメと大きく違いながらも
アニメのストーリーが今も料理に対する姿勢や
登場人物織り成す人間模様はなお素晴らしいものだと思う。

今や名探偵コナンの声優として有名な高山みなみさんは
このアニメの主人公・味吉陽一役で男の子役を決定的なものにした。

第一話はあどけない啖呵を切る演技が
やがてごく自然なものになって、
以後の演じられるキャラクターにも
影響を及ぼしているのではないかと思う。

もうこれが30年も前の話になってしまうという……。

一話だけでも、というのであれば
カレー丼決戦や七包丁の料理人との対決といった
有名な食べたものに対するリアクションや演出が過剰なくらいで
それでいて人情味のある話が見たかった。

最初は天才的な料理への工夫で主人公が
大人の料理人の鼻っ柱をへし折っていくというストーリーだったものが
個人商店と大手資本との食を巡る戦いへと変わり
その原点には第二次世界大戦終戦間もない
食への二人の人物、味皇・味将軍の見解の相違が明らかになり、
「心」の料理を追い求めていたものが、
終盤では料理は出てくるものの、あくまでも料理であって
いかに相手を思いやってそれをつくったのか、というものが
問われていくものになっていく。
母親のつくった料理の味というのは
何物にも代えがたい愛情があるもので
それを人々が体現するその日がくるまで
料理人として精進を全うしていくというところで話を結んでいる。

当時のアニメのストーリーを元に
リメイクをしてもらいたいという願望がありながらも
やはり第二次世界大戦終戦という時代を
それなりの青年期に体験した人物である味皇と味将軍という2人を
現代(2010年代)に照らし合わせて描き出すというのは
ムリがあるもので、
あの時代だからこそできたものではないかと非常に思うものがある。
「U」でもあのテイストがあれば……。

個人商店や商店街が
大手資本にまだまだ食い下がれる余地が十二分にあった時代だし
そういう「人情」染みたものを
社会は受け入れることを持っていたからこそ
こういうものが成り立ったのではないかとも思う。

当時の登場人物がサラッと「時代遅れ」と形容するところから
さらに三十年を経過したところに
今日があることを思うと。

主題歌は「ルネッサンス情熱」。
オープニングで漫画で描かれた登場人物が
アニメになってコマから飛び出していき、
実写を織り交ぜながら流れていく演出は非常に印象に残っている。
「いつも何か探し燃えてるんだ」「夢はいつも同じ場所にない」
歌詞をなぞるように組み立てたセリフがあって
制作をされている方が思い入れをもたれていたようだった。

二番を知ったのは社会人になってからで、
あぁ、あの言葉はそれをなぞっていたんだ、というのを思うのに
番組が終わってから二十年近い歳月を要することになった。

未だに工夫で印象に残っているのは
駅弁で水の入った袋を楊枝で突き刺して
石灰から熱を発生させるものとか、
パイナップルを丸ごと容器にしてカレーをつくるとか、
海苔巻きの代わりに「鰹節のシート」を使うとか、この辺。

話としてはバレンタインチョコの勝負とか
ハンバーガー勝負で女の子が
主人公陽一くんの敵がつくった
ハンバーガーの包み紙で千羽鶴をつくっているのを見て
「今回の勝負はこの子がいる限り勝てないと思った」と
勝敗の後に呟いたこととか、三十年も前というのに
ある部分は非常に鮮明に今もなお思い出せてしまうくらいに
記憶に残っているし、印象があるものになっている。

料理漫画やアニメの演出における影響というのは
昨今の食戟のソーマに至るまで
多くの作品に及ぼしているほどに
確立させたというところでも画期的で、
制作会社もガンダムなどオリジナルを手掛けるものが多いところで
原作のある作品をアニメにした点で
大きなエポックだったといわれる。

映像技術などは今日には及ばないものがあるとはいえ
その時代に滾るものが集約され
30年を経ても当時の一視聴者になお鮮明に残っているのだから
そういうものだったのだと今にして思う。

歳をそれなりにとると背景がまたわかるから
往時はその枠の中しか見ていなかったところから違った味わいがある。

DVDよりも価格は下がっていても
これで5,6回は遠出できてしまうと思うと……。
それが現実といえば現実なんだけどね……。

料理のセカイにはもうこれでいい、はない……。
あらゆるもので子ども心にも重いものだと思っていたけれども
社会を構成するものの要素はすべからくというほどに
これらが該当する中で
葛藤したり、割り切りながらあきらめるものもあったり、
そういう言葉を言い聞かせながら足を進めたりしている。

posted by 小林 慶太 at 23:42| 千葉 ☁| Comment(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月24日

染みついている声

連日、藤子不二雄先生(当時)原作のアニメが
コンテンツとして並ぶという
今にしてみると信じられないような時代を生きてきた。

ドラえもん、忍者ハットリくん、パーマン、オバケのQ太郎……。
これに加えて怪物くん、プロゴルファー猿が
バラエティ番組の一枠で顔を揃えていた時代。
90年代初頭までそれが続いた。

真骨頂は“パオパオチャンネル”なるテレビ番組で
再放送を絡めて連日流れていたものをごく自然なものとして見ていた。

ウッチャンナンチャンや所ジョージさん、高田純次さん、
大竹まことさんなどが司会を務められていたその一枠に
これらが日替わりで放送。

スネ夫、ケムマキ、パーやん(パーマン4号)、ハカセ、そしてドラキュラ……。
とりあえず冒頭にピックアップした番組から
そのキャラクターをさらにより抜いてみた。
これにキテレツ大百科の勉三に、21エモンのオナベあたりが加わる。

全て同じ方が演じていらっしゃった。
藤子アニメには不可欠な方といっても過言ではないような方。

ほかに銀河鉄道999の車掌さん、平成版おそ松くんのイヤミ、ドカベンの殿馬……。
その時代に子供時代を過ごした人なら絶対に聞いたことのある声。

それらを務めていらっしゃった肝付兼太さんが亡くなったことを
ニュースで知った。

自分にしてみると「ついこの間」という感覚で
ドラえもんのキャスティング交代も捉えているくらいの節がありながらも
それらに遡るまでどれくらい時間軸を巻き戻さなければならないのか
冷静になって思えば、というものがあるのも事実。

そういう時代を彩られた方がまたお一人世を去られてしまった。
淋しいという言葉だけで片付けられない部分があるものの
それ以上の言葉を思い当たることもないくらいだ。

先代のジャイアンのたてかべさんと
ともに後進の育成にもつとめていらっしゃったので
次代を担われる方が
その歩みをしっかりと引き継がれていかれると思う。

その時代のアニメを見て育った世代。
もっとしっかりとしないとなぁ……。
リアルタイムでその声、演技とテレビを媒介にしながら
拝聴、拝見してきたこと、幸せでした。
posted by 小林 慶太 at 22:30| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月17日

こち亀が終わった日

こち亀
この日がいつか来ることがあるとしても
ある時期を境にそれがその日に来るとは誰もが思いもしなかっただろう。
それぐらい当たり前の感覚の中に存在していた。

朝からごはん食べながら
新聞の一面広告の文言を読んで涙流してしまう自分がいた。

集英社の一面広告。
「こちら葛飾区亀ありがとう公園前派出所」

文言だけで両さん(声:ラサール石井さん)が本当に言いそうだな、という
そんな最終回への感謝の言葉に
毎回本編を読んでいるわけではないし、
ロングランに寄り添ったわけでもないのに
何故か自然に涙が出てきてしまう。

“思えば不祥事続きの40年だった”、という言葉から始まり
漫画のセカイだから許されるようなものを
しみじみと“賄賂を受け取った”“税金を使い込んだ”と呟いて
“思えばわしは模範的な警官ではなかったかもしれない”なんて
すっとぼけた言葉が続いていく姿が実際に浮かび上がりそう。

同時にそんな“漫画のセカイ”ではない現実でも
そういうことをやっている人がいるのをどこかで皮肉りながら
片や真面目に業務遂行なさっている方へ
さりげなく配慮をしているかのように感じると
なおさらに涙が溢れ出てきてしまった。

一朝一夕の登場人物の言葉ではなく40年、
ずっと休載もなく「週刊少年ジャンプ」に
そこにあるキャラクターが言っていると思うからこその含蓄があって
これらを引き出すかのように言葉を作り上げた方のすごさや
両さんへの愛情や思い入れが反映されているものには
ただただ涙しかない。

“いちいち反省なんかしていたら、いくらわしでも体がもたん”
反省もしなければならないけれども、
そればかりに、と10年、20年、30年、40年前は
“子ども”だった大人たちに肩に手をあてて励ましているかのよう。

同時に、本当に反省してもらえわなければならない人には
反省してもらわなければならないと架空のセカイから
鋭く突きさしているかのようでもある。

“海賊でもない、忍者でもない、スーパーサイヤ人でもない
ただのおじさんが主人公の漫画”と自分の漫画の事を形容しているけれど
誰もがみんな“海賊”や“忍者”、“スーパーサイヤ人”に憧れながらも
“ただのおじさん”に近い人生を歩むうえで
“主人公”であるように諭していると思うのとともに
そういう実際は超人的なものを色々と持っているけれども
“ただのおじさん”であったからこそ
ここまで40年、歩みを間口を幅広い年代の方とともにできたのではないかと思う。

200巻買ってくれを連呼する姿なんて
最後の最後まで言いそうじゃないですか。
照れくさそうに一度しか感謝の言葉をいわないっていうのも
どこか両さんらしい。

最終話、いつ以来なんだろう。週刊少年ジャンプを買って読んだ。
地元のコンビニで買った。
随分と(当時との)価格差を感じたのでそれくらい買うことがなかった。

立ち読みする機会はまるっきりないわけではないものの
普段から決まって買っていく生活サイクルを持っているお客ではないので
買い求める人として、そういう歩みをともにしてきた人なんだなぁ、という
そんな目で見られながら会計を済ませた。

日暮警部、増刊の話だけで、本編はちょこっと。
出てくるのを期待しながらチラッと見たりしていたけれども。

最終回、身内の裏話を登場人物のセリフに折り込ませてらしさがあったのとともに
お祭り的なもので締めくくられていて
前々話の“両津のバカはどこに行った”という
大原部長の怒鳴り声で締めくくったり、
普通の話で淡々と実質的には消化したものとした上での
ボーナストラックのようなものとして受け止めた。
本質的にギャグ漫画で一話完結だから。

日曜日に19:00〜、こち亀、19:30〜ONE PIECEという
そんなテレビ番組が組まれていて
フジテレビは日曜日の18時台から2時間もアニメ枠があったという
今にしてみると信じられないような時代があって
それもなお10年を遡っても辿りつけないくらいに歳月が流れてしまった。

自分自身は「キン肉マン」や「キャプテン翼」が熱狂的な時代に身を置いていて
その中に週刊少年ジャンプに「こち亀」は連載されていたわけだけれども
既にその段階から発行されていたコミックスの巻数は突出しており
100巻を越えたあたりからは、そこに連載されているのが当たり前、
ず〜っと作者が健在である限り、
そうでなくても続くものと思っていた節があるようになっていて
定期的に読む機会がなくなっても、
ラーメン屋さんに立ち寄ったり、病院にお世話になったり
そういうところで「週刊少年ジャンプ」があれば
ストーリーものではないので、すごく手が届きやすい漫画であったもので
それがなくなってしまうというのはとても寂しい。

40年一週間も休載を挟まず、
第1話再掲を見ると時代の変遷が確実に落とされている中で
トレンドを取り入れながら進化を遂げて
「変わらない」ドタバタ劇が続いていたこと、
とてつもない偉業が終わる瞬間、目の前に来るとは思わなかった。

これだけ現実では時間軸が流れているので
本来であれば両さんや中川、麗子をとっくの
昔に僕は年齢を越えているはずなのだけれども、
未だに年上の“おじさんたち”といった登場人物で捉えている。

破天荒で無茶苦茶で子供じみていて不条理で
簡単に越えられそうな“おじさん”だと
たぶん、当時小学生だった自分は思っていたのだろうし
現実にはそれを追い抜いている方もたくさんいらっしゃるだろうけれども
どこまでもその人は「年上」の人でい続けるのかもしれない。

越えたいとどこかで思っていても。

キン肉マン 大空翼 孫悟空 浦飯幽助 マキバオー 桜木花道
緋村剣心 武藤遊戯 うずまきナルト 黒崎一護……
有名どころを挙げてもきりがないくらい
入れ替わっていく多くの主人公たちとともに歩み
多くの主人公を見送ってきた両さん、お疲れさま。
posted by 小林 慶太 at 20:47| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月17日

ツマヌダ20巻

1年に2冊ペースで10年。
ツマヌダ格闘街20巻が刊行された。これで完結。

ミツルくんとジロ―くんの対決とエピローグで締めくくられ
個々の回想を盛り込みながら
あまりこれまでなされていなかった
旧来のシーンを散りばめながら読み手とともに歩みを辿るように
初期を思わせる見開きでの「天地投げ」の演出は
当初とまた違うものながらもそれを彷彿させるもので良かった。

エピローグはオールキャストが、というものに近いくらいに
さりげなくスポットライトをあてるようにされていて
それぞれにハッピーエンドが用意され
青年誌でありながらも少年漫画の良さが根底に流れているような気がした。

なかなか登場人物と
同じように成長を実感するような歩みを自分自身は
こういう歳月の中で抱けなかった。
そういうものがあればもっと満足感があったかもしれない。
posted by 小林 慶太 at 23:10| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月21日

ツマヌダ19巻

「ツマヌダ格闘街」19巻の話。

表紙を手に取って人物の姿から
ただその拳を突き上げているという
言葉以上のものを読み取ることのない人と
中高一本拳という握りをしていると読み取ることのできる人がいて
自分は前者だったりする。しかもそういう感覚もないままに。
あとがきを読んでそういうことに今さら気付いた。

ごく自然にそれが描かれているというそんな感覚があるから
一気にパラパラと読み通してしまっているのかもしれない。

書き手の方は僕が思っている以上に
その限られたページやコマの描写にこだわられて
同時に意図しているものを込めていた。

posted by 小林 慶太 at 22:56| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月17日

ツマヌダ18巻

ツマヌダ格闘街18巻が出た!

見た!?見た!?見た!?
ついにやっと18巻、100話を越えて
津田沼駅周辺が舞台がこの作品で新京成(の列車)が登場。

fight107の一コマ目、ガタンタタン、ガタンダダンと駆け抜けていく列車。
4本のラインカラーがドアの部分まで横切っていて
大きな特徴のある一枚窓(こういう形容で宜しいでしょうか?)、
紛れもなくジェントルピンクへと変貌してしまった8804編成がそのモデルで
新津田沼駅は登場した機会はあれども
一向に新京成が登場せず、いつになったら、というものに
応えられるかのように示された瞬間。

ごく普通に界隈に暮らしていると
本編よりも遥かにこちらの方に感激してしまったりするわけですよ。

前巻から延ばされていた本編上の重要なエポックが収録され
引き続きシャイニングロード記念大会が進行された今巻、
シルエットに合うキャラクターが相次いで出番となっているところで
やはり変則的な試合形式で次回へという風になっており
これはこれで楽しみなものもある一方で
順当に描かれていくという事もあまりないので
そういうのもアリではないのかと思った。

また半年後に次巻を手にすることになるのだろうけれど、
自分の置かれているところが急展開しているところで
こういう風に手にとっているからなんともいえない。

6巻の特典ペーパーが収録されていて
協賛書店の紹介とともに名称が変わっていたり、移転していたり
あるいは閉店をしているところもあって、
6巻が発売された当時は6年前で、
そういうところになっていく可能性が自分はひどく高いようで。

人間の本質でいえば、そういうものに近づいたってことだろうか。
posted by 小林 慶太 at 23:22| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月14日

新訳

15年遡っても2000年代の範疇の中で
昭和最末期へ至るには四半世紀以上の歳月を要する事になる。
あと10年歳月を加えた登場人物が
ドラマをつくるとなると非情に厳しいものがあるとはいえ
実写化にあたって演出・構成を鑑みた設定としては
登場人物の年齢はこういったところに標準を合わせるのが妥当なのかもしれない。
第1話を見る限りではそう思った。

テレビドラマ「ど根性ガエル」を見た。
“こんなのど根性ガエルじゃない”と思いきや
CGを駆使しながら結構、ど根性ガエルをしていたと思う。

東京スカイツリーをコマに入れて
昭和期のピョン吉Tシャツが洗濯をして干されたりするシーンは
20世紀と21世紀を照らし合わせて
変わるものと変わらないものと
いずれは、というものを予感させていくことを
仄めかしていたりする部分でうまいな、と思ったし、
ヒロシの母ちゃんがピョン吉Tシャツを来ていたりするのは
子どもの着なくなったシャツを普段着にしているところとかは
さりげないものの生活臭のあるシーンだったと感じた。

アニメではないところ、実写で
そういった構図や演出が図られているところに
何故今さらといった部分はある思いを払拭させていくような
説得力があるように映った。

主演の松山ケンイチさんは本当に役者としてスゴイと思った。
アニメで野沢雅子さんが声を吹き込んでいたヒロシが
歳月経るとそんな感じになるんだろうなぁ、と思わせる感じで
平清盛からこういった役まで制約がある中で演じられているのだから。

新訳された登場人物については
ヒロシだけが変わっていない、変われないところで
それをどこか見下しながらも
そこに戻りたいと思っている京子ちゃんがいたり、
ライバル・ゴリライモ(彼のあだ名だと思ってた)が
肉体的な強さだけでなくスマートさを持ってさらに強くなり
見た目は少年期の風貌を演じられていた方が
イメージとしてぴったりと合うものがあったものの、
これはこれで歳月を経た姿として解釈するのもアリではないかと感じた。

「俺の助手席はいつでも空いてるぜ」は
中学時代のゴリライモのセリフじゃないし、
そんなことをいうキャラクターじゃなかった、と思うのだけれども
それを敢えて彼がいうところに
スマートさを兼ね揃えた部分が強調されているように思う。

こういったところで、変わっちゃいないな、と吐き捨てられようと
だからなおさらに「ど根性」を訴えるのだろう。

京成押上線沿線が舞台になっているので
さりげないけど我らが北総鉄道7501編成のそばを走り抜けていて
列車に抜かれていくと千葉NT鉄道の9201編成になっていたりするところに
妙に気になってしまったりするものの
何度も組み立てられていて
作り上げられているものだというのを伺わせるものだった。
ついつい自分の「子ども」がチラッとテレビに出てくるだけで
ひどく過敏に反応してしまったりする。

エンティングの演出もカッコよく
それに比べると、というものもあるといっても
ピョコン、ペタン、ペッタンコ〜♪というアニメの主題歌が
ここで蘇ったというのも懐かしさと共に安心感があった。

つい昨今の主題歌すら記憶からすり抜けていくのに
未だにこれが染み付いているというのも。

ひっくり返る、取り替える、見違える、着替える、振り返る、もう帰る
カエルも色々あるけれど、この世で一匹〜♪という
新ど根性カエルのOPをとんねるずのお二人に
もう一回、リアルタイムに歌ってほしい。デビュー曲ですしね。

アニメがやっていた当時は小学校に入る前で
幼稚園に通っていた時から小学校の中学年に至るまで
ど根性カエルの手提げ袋を使っていた。
ヒロシは随分と年上の存在で、
ゴリライモはドラえもんに出てくるジャイアン以上に
横暴で怖いガキ大将といったモノとして見ていた。
復活した彼らはともに年下。

当時のヒロシが「京子ちゃんと結婚してやる!」と叫んでも
それは将来に無限の可能性があるからこそ響く言葉であって
ドラマのような年齢で職業に就いていないヒロシが
口にすると非情に現実的なモノではないと
冷めた目でいる自分がいるわけだけれども
それも事実ながら、こういったもので振り切っていかなければ
打開できないのも事実なのだと思う。

再放送などで世代共有がしにくい時代になっている中で
これをどれくらい受け入れてくれるんだろう。
posted by 小林 慶太 at 23:29| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月07日

イチイチアニメの設定にそこまで深く考えていると身が持たない。
でもやっぱりそういうのを気にしてしまう。

先代からの延長線上的な意味合いで「ドラゴンボール超」を見た。
ようやく、やっと。

リアルタイムで「Z」を見ていた時も思っていたけれども
悟空ファミリーとベジータファミリーだけが
人口横ばいの構造を生み出していて
他のキャラクターはクリリンだけが結婚して子どもが一人いるという
初期から見ているとすごい高齢で先細っていく狭いながらも社会構造になっていると
なおさらに思うようになった。
(GTはもっと高齢社会だ)

悟空にはチチの親である牛魔王のバックアップがあって
自給自足の生活を営んでいるような描写があっても
何だかんだそれを切り崩している台詞が前作ではあったし
初めて描かれるようになった
悟飯とビーデルのカップルもまたミスターサタンという
この上ない資本提供者によって家庭が成り立っていて
さらにベジータもまたブルマの家が
世界一の大企業カプセルコーポレーションという背景があって
こういったものに縁のない
オープニングとエンティングにちょこっとだけ出てきた
初期からのキャラクターとの差に虚しさを憶えたりするのだった。

微笑ましい家族像があっても
そういったものが絡んで成り立っていることを思うと何とも。

みんながみんな成り立っていたら
キャラクターばかりが増えて収拾つかなくなってしまうものもあるけど。

加えてあまりにこれらに絡んだキャラクターの
パワーバランスが突出しているからなおさらに思えるわけで。

歳とると余計なこと考えるからダメだなぁ。
posted by 小林 慶太 at 23:35| 千葉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月16日

ツマヌダ17巻

どんなに帰宅時間が遅くなろうと
地元書店の営業時間内にたどり着けるのを幸いに
死力を尽くしてツマヌダ格闘街17巻を買った。

千葉県の妻沼田市という架空の街が舞台ながら
ロシアに帰る一行を見送るというものを描くために
著者の方は羽田空港を下地にされたそうで
地理的な要件も絡んでいるとはいえ
やはり国際線ターミナルを持っている以上
自ずとそちらへと話が動いていくのかな、というところに
国際線の羽田空港と成田空港における
イメージ浸透などが垣間見えるような気がする。

本編は某漫画のオマージュともいうべき
キャラクターが多々登場している中で
「僕がこの街でこれからも大丈夫なんだって思ってもらわないと
ドラエさんが家族のいる国へ安心して帰れなんです」という
言葉に総括される一連の会話や動作があてはめられており
そういうものを彷彿されながら読んでいた。
同時にモデルとなっているキャラクターへの
作者の問答が投影されているように感じた。

100話目からはずっとモリシアが戦いの舞台となって
やはりご当地漫画はそういったシュチュエーションから
のめり込める要素が地元に暮らしていると
なおさらにあるのだと改めて思うのだった。

脇役どうしの戦いで次巻へつづく、で
半年また待っていくわけだけど……。
シルエット通りの方々がちゃんと戦ってくれるんだろうか?
意外に多国籍なキャラクターが登場していたことに
今更ながら気付いた。

登場人物みたいな成長のないままに
長期連載を追っていく自分がどこかツライ。
posted by 小林 慶太 at 23:53| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月18日

長期化

やっと地元の書店でツマヌダ格闘街の16巻を買った。
メッセージペーパーの誘惑を振り切って何とか。

帯に連載本編では100回を迎えるとあり
月刊誌で100回なので8年以上も読んでいるという歳月に
改めて愕然とするのだった。

なんて綴ってもそれ以上の長期連載のモノを読んでいたりするので
それに比べれば、というものながら
比較的「最近」読み出したという感覚を思っていたものが
もはや「8年」という点と
ギャグ漫画みたいなものは別にしてもストーリー漫画などは
リアルタイムに流れている時間軸と
登場人物が体感している時間軸の差をひどく思うもので
どんどんとムダに年齢だけ重ねていく自分の姿が際立つようで。

同じように強くなる、成長するという感覚が手元にあると
もっと積極的な感覚でこれを読んでいくのではないかと思う。

長く続くものをどこかで求めながら
自己矛盾しながらもその惰性的な感覚を断ち切りたいものも。

そう思って断ち切るものもないわけではない中で
結局は手をとって読んでいたりする自分がいる。

自分がそういうものに追随できるものであればいいけれど。
なかなか、ね……。

筆者の方はこの100話に迫るまでの期間に
相当な下調べや集積を行い、表現技術などの駆使をして
その歳月を費やして話を組み立ててきて、
独自の格闘街の世界観を拡げてきたと思うものの、
それに対して読み手である自分は……。
posted by 小林 慶太 at 22:58| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月06日

ブランド硬直

やっぱりその世代だったし、
作品自体の素晴らしさや受け入れられる土壌を有しているのも
間違いないことなんだろうけれども、
裏を返せば、それを凌ぐ市場や
人口構造が導きにくい状況が現況にあることを
強く物語っているわけで一概に何ともいえない。
少子化とかは確実にこういうところでも影を落としている気がする。

「じっちゃんの名にかけて!」というわけで
主題歌で言うと「brave」や「never say never no」が印象に残っている
金田一少年の事件簿がアニメで復活。

これで名探偵コナンと合わせて1990年代末期の月曜19:00〜の1時間の番組が
そっくりそのまま土曜日17:30〜と枠を変えて再現されることになった。

サンデー&マガジンのコラボでも企画があったりするし
雑誌でも登場していたりするので
当時の人たちだけでなくその知名度もあることと期待感の反映といった
そんな意味合いもあるのかもしれないけれど、
やっぱりそれを打ち消すくらいの市場、作品というものがない
こんなところの物事があるのかもしれない。

犬夜叉、結界師、ヤッターマン……(以後は見てないので)と
前作の金田一少年の事件簿の後番組を10年以上の間に変えてきて
月曜日のゴールデンタイムにアニメが放送されない時代に入っても
なおも健在でいる名探偵コナンといったら。

しかもそれだけ歳月が流れているのに
江戸川コナンは一向に工藤新一くんに戻れないっていうのも……。

圧倒的に映画でも興行をはじき出す作品ですら
そういう扱いになってしまっている歳月を経て
再び出揃った両雄。

アニメは実写と異なって当時と
ほぼそのままのキャスティングが実現してしまうそのスゴさと
逆にもっとそれ以上に歳をとらない方々もほかの作品ではいるものの、
ず〜っと登場人物はその年齢のままというその現実に
自分自身が満ち足りている人生を歩んでいるとはいえない事が加わると
非常にやるせなさが募るばかりで。

ドラゴンボール改も魔人ブウ編がはじまったけれども
3年のインターバルを挟むと
どうしてもこのタイトルに頼らなければならない市場構造が垣間見えるようで
その作品以上に足を置いている社会状況をひどく意識してしまうのだった。
posted by 小林 慶太 at 22:49| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月30日

現実と聖闘士

2年続いた聖闘士星矢Ωが最終回を迎えた。
最終回の後半パートのパライストラの復興や
逆境を活力に変えていく人々の逞しさが描かれていくのは
現代の時代背景に強いメッセージ性が込められていたように思う。

新世代聖闘士の活躍と同時に旧世代聖闘士にも活躍の場が用意されており
極めて強い人々=聖闘士の闘いの一方で
それと別次元で人々の困難に対してどう向き合っていくのかというのが
同時並行して描かれていたというのを感じた。
posted by 小林 慶太 at 23:21| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月19日

ツマヌダ格闘街15巻

ツマヌダ格闘街15巻を地元書店で手にした。
ようやく王子杯の決勝戦が決着した。
回想シーンを挟みながら描かれる決着もさることながら
Fight90の「もっとも害されるのは」という話が秀逸だったと思う。
ストリートファイトにおける
ミツルくんの成長が話の骨格になっている中で
こういうエピソード。

王子杯決勝が八百長であるという匿名の告発文があったということで
ミツルの家にやってきた浦光摩緒。
ここにラミィが誹謗中傷を行った相手を探し出して
それについて抗議することはできないのか、と問いかける中で
先例として実際に行った人物として上がるのが
ミツルくんがEXリーグでの初戦の相手となった
パトリック・ディロンだった。

なぜこのところでこの人物が登場するのかというので
非常に衝撃を受けたものの、
その対応と答えを導ける人物というのは
パトリック・ディロンしかいなかったのだと思う。

英会話の教室を開いていて、
その講師の人たちにも危害が及ぶような状況に陥って
サッと立ち上がれるのはこの人物だけだ。
他のキャラクターの性格を踏まえたり
バックグラウンドからしてもピタリと整合するのは彼ぐらいだろう。

こういうところでエピソードが描かれ
その毀損相手を倒した際に「二度とやりたくない」という
対峙する側にとっても後味の悪さを伝え、
摩緒とドラエの「悪口は快楽だ」というものに対しての
批判を重ねても成長しない自分がそこにいることや
「不悪口戒」についてなど
本来の話とはかなり反れたエピソードだけれども
組み立て方がうまく、
格闘技の話よりも身近に感じさせるように映った。

非常に批判が多いこのブログだけどね……。
ダメなものをダメってダイレクトに跳ね除けるチカラが
自分にあれば、というのはまさにそのものっていう感じだ。嗚呼。
posted by 小林 慶太 at 23:57| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月18日

ツマヌダ14巻

ツマヌダ格闘街14巻が出たのを知り、
例のごとく葛藤に苛まれながら地元の某書店で入手した。
発売日に、というわけには行かず平積みではなかったものの、
舞台の隣接市ながらしっかりと購買を想定して仕入れてもらえて感謝。

やはり王子杯決勝ということでこの巻だけでは完結せず、
ミツルくんと鷹羽和義の対決は次巻へと持ち越される事になった。
朝倉藤十郎の昔話が非常に個人の話に留まらないような皮肉に思えて……。

飲み込みの早い鷹羽和義に
空手を教えるべきではなかったのではないかという自問から
かつて優れた弟子がその道を外した際に自分自身で成敗した結果、
この弟子の人生を閉ざさせてしまった事への悔悟が呟かれる。

空手の成長が早すぎて心の成長が追いつかなかったという言葉は
この漫画における格闘技のみならず、
無尽蔵に成長を遂げていく今日の社会を照らし合わせていくかのようで。

それを受けての御名本弘志郎翁の
「闇に落ちたのは彼は孤独だったからなのではないか」という言葉は
斜陽を迎えている個々人を仄めかしているようになおかつ映る。

なかなか清涼剤のように
「好敵手がいる」いうセリフに至るまでのような過程を描けるには
現実はなかなかうまくいかないようで
だからこそのこの言葉なのではなかと。

御名本翁は前巻で戦争におけるエピソードを挟んだ事で
言葉に奥行きがでてきたように感じた。
posted by 小林 慶太 at 23:30| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月01日

ルパン三世展

原作者モンキーパンチ氏が在住されている縁と
アニメ化40周年という機会で佐倉市立美術館で開催されている
ルパン三世展に出かけた。2013年2月2日〜3月24日まで。

現在、幕末義人伝浪漫というアニメを見ているのだけれど
これもキャラクターデザインをモンキーパンチ氏が手がけていて
制作がトムスエンタテイメントというので
どうしてもあの顔を見ると連想する声はルパン三世でしかなかったりする。
(ごめんなさい、ルパンが時代劇やっているっていう感じで見てる)
ルパン三世展
会場となっている佐倉市立美術館。
話題はルパン三世で取り上げているけれど
大正期につくられた県指定の有形文化財の建物だ。
ルパン三世展
同種のデザインが京成電鉄の中吊広告などでも見受けられ、
主催側の発信力もあって
佐倉市のみならず、かなりの方が訪れていた。

これに先立ってルパン三世の塗り絵が市内の小学生などに配られ
会場や商店の店頭を飾っていて
そういった演出もあり佐倉市と
ルパン三世のつながりを印象づけるものも見受けられた。

再放送などがほとんどない時代で
年に1度のアニメスペシャルも放送が21時代以降となると
接点があまり多いとは思えない
小学生でもルパンは赤いジャケットに塗っている子が多く、
塗り絵の余白部分を埋めるアイディアにはニンマリとしてしまうものも多い。

銀行泥棒をしている背景を描いたり、脇に富士山が描かれたり、
カムロちゃんがいたり、オランダ風車があったりと。

ルパン三世展
館内展示は撮影禁止の中で
唯一これだけ撮影OKとなっていたのでグリーンのルパンと次元。

展示は絵コンテや脚本、セル画といったアニメのものや
劇場版ポスターやフィギュア、原作の扉絵などの紹介など
多岐にわたっており、再放送世代なのでその記憶をさかのぼっていくのに
十二分だった。
アジトの紹介とか原作にのっとっているようで
そういう存在すら意識して見ていることもなかった気がする。

アニメとの接点しかほとんどないので
モンキーパンチが描かれた漫画のルパン、
これが本来なのだけどギャップや違和感を思ってしまうのは
それだけ幅広い年齢層の視聴者獲得を図った
アニメの影響力なのだと思う。
再放送の話の中身は詳細は記憶にないに等しいけれど
このアニメを自然に目にする機会というのは遥かに多かった。

夕方にアニメが再放送される時代ってのは
振り返れば子供たちがその時間帯に家にいて
その市場も看過できないものとして存在していて
アニメを見ているあいだに晩御飯を親御さんが用意して
18時台くらいから食卓を囲むという
そんなライフサイクルが描けた
ある意味幸せな時代にあったのかもしれない。

東京ムービーからトムスエンタテイメントに変わり
表現技術も格段に進化しながらも
当初から変わらないものが
アニメの根底を支えているのだというのは
こういった展示を見ると思うこと。

未だに「ロシアより愛を込めて」はセル画をみて
あのシーンだ、とわかるくせに
何故か「血の刻印」と「東方見聞録アナザーページ」という
昨今のスペシャルの方は見ているはずなのに
スッポリと記憶がまるっきりない自分って一体……。

それだけ真剣に見ていたって事なんだろうけど。
今にして思えばその記憶力を
何で他のことに活かせなかったのだろうと思う事も否めない。
逆に今は失礼な言い方をすると
その延長線上で見ているからかなぁ。

少なくともスペシャルがやるんだ!というワクワク感で
その日の夜を迎える事はなくなってしまった。
そういうところが昨今の方の記憶が、というものに
つながっているのかもしれない。

ずっと好きなものを好きでいて
同じように情熱を傾けられるっていうのは
簡単な事じゃないよなぁ……。

そして佐倉市と原作者モンキーパンチ氏との接点。
自分もそれを知ったのは佐倉市が発行したルパン三世カレンダーで
この場所に前回やってきた時もそのカレンダーを手にした家路。
それでようやくモデルとなった場所を知った、とか
そういう切り口を与えてくれたのもこれだった。
街における発信力を発揮できる方の影響力もまた大きい。
それをどれだけ持続させていくのかというものを
発信者のみならず受け手も踏まえなければ、というのに。
posted by 小林 慶太 at 22:07| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月19日

ツマヌダ13巻

ツマヌダ格闘街13巻が発売されたので
数多の誘惑振り切って(大げさ)地元某書店で買った。

まだ決勝戦じゃない、という第1印象の元に
ページをめくった自分がバカだった。

シベリア抑留など歴史的にも重い話を絡ませながら
第1話に至るまでの経緯が明らかになり
こういったバックグラウンドが存在しているとは
思いもよらなかった。

決勝戦への高揚感を盛り立てて
ミツルとドラエが教え教わる関係を再構築するところで
完結してもいいのではないかと思える話ではなかったかと
感じるくらいのまとまりがあったと思う。

posted by 小林 慶太 at 22:06| 千葉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月21日

移ろい

連載モノの宿命といえばそれまでながらも
どんどんと周りの登場人物と自分の年齢が遠のいていくと
これに追随していくのが辛いと思う事が少なくない。

面白いという言葉が的確な表現かは別にしても
引き寄せる「何か」があるのも確かだけれど、
一方ではそういった気持ちとのジレンマに晒されることが多い。

それでも読んでいくのは「惰性」だったり、
時として「義務」的なものだったり
「ライフワーク」の一つだったりするのかもしれない。

ツマヌダ格闘街12巻が出た。
何とか職場近くの書店のメッセージペーパー特典という誘惑を払拭して
地元の書店で買った。ブログを書いている人間は浮気性で気持ちが続かない。

年2回、コミックスが出るので単純にそれだけ読んでいるわけだけれど
(もっと長く読んでいるのもある)
もうそろそろプリンス杯の決勝戦かと思いきや
むしろ決勝戦は遠のいていく感覚が読み終えたあと強くって……。

ちょこっと出てきただけのキャラクターが再登場とかは
長期連載ならではの嬉しさもあるし、
区切り区切りでのまとまりがあるといっても。

なかなか自分自身の気持ちというのが続かないなぁ、と。

posted by 小林 慶太 at 22:37| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月02日

るろ剣キネマ

その1
色々と世代交代が果たせない構造というのは
市場として行き詰っている事を物語っているんだろうな、と思いつつも
その膠着状態をつくっている市場の構成員の一員なので
ついその昔見ていた、というところから
どこか「惰性」でつい見てしまっている、というのも否めないところか。

連載の顔ぶれを見ると、商業至上主義である事を全て否定しないけれど
週刊少年ジャンプで動かしがたい、捨てきれない確固とした市場を有している漫画が
ある意味「魅力あるコンテンツ」が延命されている部分というのは色濃いかと。
どんどんそういう性格が濃くなっているところに
社会構造の投影を垣間見たりする。

「るろうに剣心キネマ版」がジャンプスクウェアではじまった。
非常に実写劇場版の高揚感を煽動させるのとともに
相乗効果を図っているようで穿ったモノの見方をする自分がいる。

あの続編をどこかで期待しながら、
これ以上ないようなまとまりをしていたところに
「話」が追加されていく事に抵抗感を抱きながら開いた紙面は
剣心と薫・弥彦の出会いから武田観柳が絡むという最初から紡ぎ直すという
異例の再構築がなされている話だった。

アニメ版のキャスティングで登場人物のセリフを脳内補完していく
自分の記憶力って本当にムダなところで使っているんだぁと我ながら思う。

またこれを月刊で読んでいくの!?と思うと内心ゾッとしながらも
同一作者によるこの展開もアリかと思うものの、
商業的なモノの先行きは非常に不安を隠せないように感じた。

作品が素晴らしい、というのは今も昔も紛れもない事だけれど。

その2
そんなものにイチイチ気にするのは僕くらいかもしれない。

職場で流れているラジオ(やっとラジオが入る職場になった)のCMで
某遊興施設が某声優さんを起用してセリフは違うのだけれど、
要は「パチンコに行こうぜ!」というような事を言っているわけで
こういうものに非常に傷ついたりする。

オレは誰々だ!とも言っているわけでもないし、
その声から連想する僕が勝手に想像しているだけだけど、
まぁ、連想する人物というのはルフィ(「ONE PIECE」)なわけですよ。
クリリンでもなければ、ワタルでもなければ、カンナでもない。

ルフィは少年漫画の王道の主人公。一応彼の年齢を踏まえると。
それにこういうセリフを、ってなると……。
彼のセカイにはそういう年齢制限とかないでしょうけどさ……。

ちなみに両さん(こちら葛飾区亀有公園前派出所)とか銀さん(銀魂)に
同様のセリフを言われても何とも思わないけど、
これはキャラクターのイメージに支えられているのもあるものの、
やっぱりルフィに言われたくないな、と。一護とかナルトにも。

ともあれ15年連載してたり、アニメも10年を超えていれば
小学生だってパチンコもするような年齢になるのかもしれないし、
この声から親子の会話が派生するのかもしれないし、
こういったところから認知度を上げるような意図があるのかもしれない。

パッとリアクションがあるのかもしれないし、
こういう風に指摘するとCM成り立たなくなるけどさ……。

どんなものでしょうね……。
posted by 小林 慶太 at 22:33| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月03日

オメガ

ついこの間まで見ていたアニメの主題歌や話の記憶が曖昧なのに
四半世紀前のアニメの主題歌や話の方がかえって鮮明なのは何でなんだろう……。

ハードディスクもビデオもなかったのに、それだけ真剣に見ていたって事なのか、
ムダに記憶力を使っているだけだったりするのかもしれない。

世代循環などを鑑みれば続いてほしいとどこかで思いながらも
どこかで一方では途絶えなければならないという部分がずっと付きまとっている。

「聖闘士星矢Ω」がはじまった。
中川翔子さんが歌っているとはいえ
「ペガサス幻想」は当時を思い出させるのには十二分だった。

とか言いながら、原作とアニメの末期の記憶が曖昧で、
リアルタイムに生きていた会社の人たちとみんな記憶が違っているのは
「盛り上がり」とその「末期」を反映したものだったのかもしれない。

それだけ少年漫画を支えていた市場を成す子供たちがいた時代だった反面、
現代社会は作品自体の価値もさることながら市場を成す子供たちが少ない事を物語ってる。

自分たちがそれを見ていて自然に世代交代がなされて
商品や作品が寿命を迎えていくというシナリオを描くのには
次なる世代の人たちが基本的にはヒトの数を根底にしてそれ以上の市場などを開拓して
自ずと淘汰していくというのが本来望むものながらも
現実にはそれが果たせる状況ではないものが続いていく。

スポンサーの顔ぶれと示す商品などを見ても
やはり「当時の少年」だった人たちに「市場価値」を見出している部分というモノが
非常に強く感じるし、現実問題としてそれを根底にしておかないと
市場として成り立たない事すら思えてならない。
着ボイスとかそのリアルタイム世代を刺激するもので
新規市場の人たちを安易に取り込めるものとはすんなり見えないけれどどうなのだろう?

そもそも「聖闘士星矢」は土曜日の19:00という
今では信じられないようなゴールデンタイムにアニメが放映されていて
極端な言い方をすれば「みんな見ていた」とかそういうレベルで、
特に黄金聖闘士との闘いのあたりは
月曜日の会話がクラスの子と付いていけないというものだったような気がする。
結構、そういったアニメに限らず「ブーム」があった。

加えて娯楽が今は多岐にわたっているというけれど、
もうその時代は既にテレビゲームもあった中で裏番組も「子供向け」を対象として
それなりに物事を成り立たせることができたのだから脅威的なものだ。

この勢いというのも「ブーム」だから「移り気」で「冷めて」しまうものも早くって
やはり子どもの興味関心の移り気の早さというのは特筆すべきもので
こういったものが玩具産業の根底を支えていたのだと思うし
これを体現するだけの所得を多くのご両親が得て、
子どもに配分する事のできた時代だったのだと思う。加えて循環できるそのスピード。

翻って今を思えば、それを同じように体現できる社会にあるのか思うと
乏しく限られたものであって、追随するというのも「やっと」というものであったり
時として「あきらめる」ものも多々であるのかもしれない。

そういったモノの上に身を置いていたりする、そんな今日この頃。

この辺が人間の本質的なもので、
市場の高揚感などが曖昧にしていたのかもしれないと思うし、
偶然的に物事が成り立っていただけかもと今にして思う。

加えて興業的な盛り上げ方をしているだけで
冷静に見据えてみれば、と冷めた目でいる自分がいるのも確かだ。
この辺はすべてにおいて言える事だけれど。
posted by 小林 慶太 at 00:10| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ・漫画の話? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする