なんとかたどり着いた出雲市駅から今度は出雲大社へと向かう。
この日は節分にあたり、こういう年中行事と重なる日に
寺社仏閣へと参拝することがほとんどない中で、
しかも出雲大社へ向かうというのは興味深いものがあった。
出雲大社の節分に関するポスターは大田市駅で見かけた。
よく見たら午前1時から、とかあってビックリ。
その時間帯の境内や神門通りはどんなものだったのだろう。
豆撒きなどもそうだし、恵方巻と人々の生活についても。
関西圏の風習だといわれているモノを取り込んで演出を拡大をしている印象があるところに
西日本地域はどういうものなのかとか。あくまで断片的なモノに過ぎないのだけれど。
寝過ごした関係でお昼はここ2年ほどキッチリと立ち寄っている観光施設に行こうと
思っていたものの、これを切り詰めるべくカット。
結果として観光施設への僕の微々たる需要が削られることになる。
チマチマ気にしていると何もできなくなるけど、
こういうのも考慮に入れなければ人口が減って、
限られた需要などであらゆるものを賄っていく時代は
成り立たなくなる可能性があるのも否めない事実。
駅弁を手配してホテルの脇を通って次なる交通手段へと向かう。
ちなみに駅弁は毎年、列車に乗る前に出雲そばを食べてる分がこちらにまわってるんだけど。
映画「RAILWAYS〜49歳で電車の運転士になった男の物語」の舞台になったこともあって、
駅の入口にはデハニ50形のイラストが描かれ一畑電車をPR。
やはり脚光を浴びたのだと思う。
それと同時にその脚光をいかに取り込み定期的なモノとしていくのかというのが
一畑電車と沿線地域(松江市、出雲市)の課題。
この効果に伴う旅客は増えているものの、
それ以上に沿線需要が減少していて年間旅客が140万人を切ってしまった。
赤字は毎年2億円以上。かなり限界に近い状況下までコストダウンをはかりながら
アテンダントの方たちを他の地方鉄道に比べて早い段階で投入したり、
自転車の持ち込みが可能だったり、企画乗車券など導入してはいるものの、
それ以上に需要が足りない。
活性化協議会が終電の時間帯を伸ばしたりなどの社会実験などを行ったあとこれを受けて
一畑電車沿線地域公共交通総合連携計画というものを作り上げている。
そんな一畑電車。次の松江しんじ湖温泉行は……、え〜!?
時刻を確認して頭の中を高速回転(しているつもり)させて今後の旅程を組み立てた結果、
バス、という選択肢に。
今の前置きって何だったんだ!
というわけでバス。こちらも一畑バスというわけでグループで全体で考えれば問題ないって事で。
絶対そんな事はない。
個々に組み合わせながら交通網を維持するような
ライフサイクルを生み出さなければならないから、それぞれに必要性を見出して
ともに成り立つような需要を捻出しなければならない。
確かに鉄道、バスともに目的地と所要がさほど変わらなければ
選択肢が増えるところで便利ということになるけれど、
その分、限られた需要が分散され、
本来的にそれを維持するだけの需要を賄えなくなる事だって十二分にある。
これによって左右されるのは経由地で交通網に与る人たち。
こういうモノにも考慮しなければならないのだと思う。
やはり出雲大社行のバスは観光客というような雰囲気の人が多い。
他の生活路線とこの辺が違うところ。
結構、行き先見ないで上塩冶車庫行に乗ろうとしたりされる人も。
乗車したのは島根ワイナリーや古代出雲歴史博物館経由のもの。
遥堪駅を通っていくタイミングで川跡行の列車と遭遇したのでパチリと。
昔、どういうわけか僕が道に迷ってたどり着いた駅がここ。
地図を持って旅というスタイルのない頃で、雪の日の事だった。
無人駅にも出雲神話に因んだイラストなどが施されていて
人目を惹く様な工夫と自分たちの駅であるという意識を持つような取り込みがされているんだけど、
やっぱり、みんな自分のセカイに入ってるよなぁ……。
駅から伸びる正面の通りや高瀬川の景観とかだって、魅力的なモノだし、
出雲ドームが見えるとか、そういう切り口でもいいんだけどなぁ。
自分自身が意識を広げていくはたらきかけがなければ
人口が減少していく社会の中で「(他人の)子育てに(も)やさしい社会を!!」っていうように
社会への裾野を広げていく事なんて到底できない。
同時にそういうものに必然的に限界があるというものだってわかるはずで
そういう条件下で物事を模索していかなければならないというのに。
それをする、しないというのも自由。
社会的還元でどれくらい実現できるのかを考えるってのも自由な話だけれど。
国道431号に出て観光バスが停まっている島根ワイナリーに立ち寄って
みせん広場を通っていくと斜めに大きな日の丸が見えてきて古代出雲歴史博物館を通って
出雲大社の正門前に到着。
ここから神門通りや宇迦の大鳥居を見る瞬間が実にいい、とか思いつつも
ダイレクトにやってきているからそれに伴って微々たるものでありながらも
意識や経済というモノが広がらない。その代償が利便性。皮肉だ。
荘厳さにつつまれた玉砂利を踏み分けて松の参道を歩いていく。
勢溜の鳥居からこの辺りまで足場が昨年と変わっていたのを知ったのは
露店の方がそういう話題をしていてからようやく、という有り様だった。
自分の意識は足元にさえないんだなぁ。
やっぱり平成25年5月までの大遷宮が行われているため、
本殿はまるで要塞を思わせるような姿のままだった。
御仮殿にて参拝。
足元は非常に多くの福豆が撒かれていたことをうかがわせるように
参拝者によって踏みつぶされた豆がすごい。午前1時に何があったのだろう?
神道なので「人形(ひとがた)」の奉納の祭祀なども受け付けがされていたり、
本来的な年中行事の姿を垣間見る機会となった。
100円を納めて福豆を頂いた。炙られたようなありがたいもの(のような気がするもの)だった。
これが御仮殿などでどのように撒かれていたのかとか、
参拝をされている方々はどうだったのかとか、どうやってその時間帯に来られたのかとか
断片的なこれら情報量だけでは想像も尽かない。
勢溜の鳥居から神門通りを歩いていく。
遷宮も気になるけれど、昨年改修中だった旧大社駅へ向かわねば。
神門通りの景観は絶賛するけれど、僕から派生する要素の少なさといったら。
「いい」と思っているモノに対するコストを問うと
観光需要の依存度が高いってわかっているのにこの体たらく。
こういうお店がある、とか「意識」していくだけでも随分違うはずなのに
面倒がって下手すればバスで一気に目的地に素通りというのさえ選択肢に浮かんでしまうのだから。
この距離感というモノが路線改廃につながった原因なのだろうけれど。
節分だから、という特別な演出があるわけではなく、
恵方巻がこれでもか、というくらいにどこも前面に打ち出しているのかもとか
そういう光景を想定していたけれど、落ち着いた観光客のいる日常空間が
ごく「普通」に存在していて、ちょっと意外だった。
確かに恵方巻の陳列は「やはり」というところもあったものの、
商業的な演出が本来のものを遥かに凌駕するようになってしまったのは紛れもない事のようだ。
それだけ演出が「異様」なのだろう。
出雲大社前駅を少し覗いていこう。
つづく
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