まさに少子社会がここまで至っているのかを物語るものだった。
自分が在校していた当時の在校生がほぼ半分という状況で、
クラスは1学年、自分の時で一クラス40人で4〜5組あったものが
今は単純計算で概算だけれど、
一クラス30人で3組をつくるのがやっとという数値。
実際は知らないけど、全校生徒の人数を学年で割って紹介されていた
クラス数で割るとそういう数字が出てきた。
少人数学級という言葉を耳にしていたけれど、
そういう単位にしても往時のクラス数に及ばないっていうのは
どういうことなのだろう。
にも関わらず、全体で見ると人口が増えている市域にあって、
こういう状況が何を訴えかけているのかを思うと、
色々な不安要素が常につきまとう。
うちの学区だけ過疎なの?
マンション結構できてる気もするんだけどなぁ。
人口分布も気にしないと色々と危ない。
人が集まっている地区の人が
集まらない地区に出向いて例えばゴミ拾いとかする?
人口における年齢構成はそっくり購買力を反映することも
少なからずあるから、
年齢層の偏りは商業圏の偏りをそっくり体現することもあり得る。
加えてそれを補うインフラがなければ、となると大変なこと。
教育にかける予算ってのはどうなっているんだろう。
全然そんなのを気にかけなかったけれど、
さすがにその数字を見て考えてしまった。
少なくとも自分が在籍していた当時と金額が同じであるのなら、
それを人数で割るのだから、
一人当たりにかける教育費というのは高くなっていることを物語るわけで、
それを教育の充実と考えて、
負担する市民側が何も躊躇なく求めることのできる次元に
物事があるのかをさすがに考えてしまう。
一人当たりの教育費が往時と同じであるのなら、
自ずと予算における教育費は減ってしかるべきなのだけど、
パッとそうなっているよ、と思える要素が少ない。
むしろ予算が増える一方で、実体における負担が減っているか、というと
そういうわけではない気もする。
例えば、僕が小学生の時は親が通学路に立って
子どもたちの安全を見守る、という発想はなかった。
今は様々な社会的要因から全ての人が、とはいかないまでも、
保護者の方がケアをされていることを筆頭に
金銭に加えての負担も当時に比べて重い。
しかもそれを感覚としてすんなりと受け入れられる範疇にあるのかを思えば
やはり全ての人がケアができるわけではないのを思うと、
そうではないようだ。
よりよい教育を求めることは常に代価が付きまとうもので
それを滞りなく工面できるものなのかを考えると
状況を好転させる要素は非常に少ないもののように感じる。
むしろ教育に対するおカネが増加傾向にあるとすれば何を意味するのかを思うと
「充実」という言葉で受け入れられるのにも限界というものを感じざるを得ない。
今、少子社会で教育の水準を維持するのに苦労しているのであれば、
その子どもが増えた時に、同水準の教育を維持するのは不可能だという言葉が脳裏を過ぎるのは
僕の気のせいまのだろうか?
逆に自分たちの経済を維持しつつ、「充実」を図るのであれば
必ずどこかに歪みを生じさせるわけで、
それがどこに影を落とすのか、というのも怖い話だと思うし。
それもまたどこまで容認できるのかも疑問。
福祉は子どもたちだけでなく、高齢者にも当然考えなければいけないし、
なおかつ現役世代にも相応に保障されなければならない。
そんな福祉を支えるのは現役世代という非常に限られた人たち。
負担が増えていくことを消化するのには
収入を少なくとも増やすことが前提になる。
パイの奪い合いで増やすことであれば、
その歪みに対するケアはどうする?
教育というものは全ての人に対して保障されている権利。
しっかりとそういう人にも
保障する方策を持ちえなければ簡単にできるものではない。
先細る要素ばかりが見えてくる。
それでも上を見なければいけないのだろうか。
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