2009年07月04日

アナログ人間 すごいのはお友達

その1 アナログ人間

某市議会議員さんの会報が出た。
自身の一般質問について事細かに踏み込んでいる内容の一方で
その中で6月定例会で
市議会のインターネット中継の一日も早い実現を願う陳情が
議会で全会一致で採択されたことが綴られていた。

既に実施計画に出されていたものの、
それが繰り延べられていて、
今日では周辺市がみな実施しているのに
うちの市だけが行われていない状況になっていることが
説明されていたのだけれど、
インターネット中継って本当に必要なのかな?

平成23年にはやることになっているらしいけれど、
おカネが限られている中で維持コストなどを考えると
ある一定の利便性を受けるということは
一定のコストを賄わなければいけないわけで、
それを凌ぐほどの必要性があるのかどうかを考えると
あまりないような気がする。

だってインターネット中継しなくても
別に周辺の市に比べて狭いから、市役所簡単にいけるし、
全国各地でうちの市の市議会をリアルタイムに見たいとか思う人というのも
どれくらいいるのか考えると、どうなのかな、と。

遅れていたって別に僕は恥じることもないし。
逆にそういう部分で
「お前のところは遅れているな」っていう人の価値観を
逆にこの歳になると疑うと思う。

加えて、議事録に比べて
議会配信は情報の取捨選択に
(我々が)手間をかけるような印象が強かったりする。

議事録は作成側に手間をかけさせているのだけれど。

ネット中継というものに接点を有したのは
僕の場合は新京成無人化計画における県議会の議事の検索なのだけれど、
議会の動画配信ではアニメとかと違って、
「このシーンでこのセリフだ!!」(つまり聞きたい部分を喋っている)とか
ハッキリとわかりにくかった印象を受けた。
だって議会の質疑応答というのは非常に地味なやりとりだから。
結局、最初から最後まで言葉を拾っていく作業をする羽目に。

しかも時間というのが現実と同じ所要を要していくわけで、
早送りしながら言葉まで拾うとか、
字幕があるとか、そういうものではなかったのでうんざりした。

その点、議事録は自分の時間で
実際の所要よりも遥かに必要事項の抽出が
可能という部分で優位だと思ったりもする。

この辺はどうだろう?

多くの人が見ることができたり、
逆にどうしても市議会に傍聴に行きたいけど行けないという人のために
何かの事業を犠牲にしてでもやらなければいけないと思うのであれば
僕はむしろやるべきだと思うんだけど、
他がやっているから、とかそういう理由だったり、
あれもこれもやろうという話を前提であったり
何もそういうのを踏まえていなかったりするのであれば、
陳情を採択する立場の人たちの見解を僕は疑う。

※陳情を出す人の批判ではないです。
それぞれの立場によっての見解があって然りなのであって
そういうものに対して見解を示す人に問題提起しているだけです。

その2 すごいのは「お友達」

衆議院選挙が行われるのを控えて、立候補を表明している人が
色々と方策を打ち出したビラを発行している。

写真も織り交ぜているのだけれど、
その写真というのが、俗にいう「有名人」の国会議員の人と
一緒に演説をしている姿ばかりで、
その人のネームバリューばかりを借りていて、
立候補する人自身の姿が相対的に埋没しているような印象を受けた。

この立候補している人に限らず、
多くの立候補者がやっていることだけれど、
冷静に考えると、すごいのはその自分の隣にいる人であって
その立候補者自身とは別に関係がないわけで、
確かにそういう人と知り合いだ、というのは
重要な要素かもしれないけれど、
そういうものを前に打ち出して人にPRするというのは
他者の力によって1票を得ようという姿勢のあらわれのようで
不愉快に感じた。

一方ではこういう人とお友達なら、と思う人もいるかもしれないけどさ。

加えてその発想というのが人の安心を考えるのではなく、
むしろ弄んでいるような印象が強くって怖いと思う。

今は少子社会というわけで何らかの方策を考えないと
人口というものによって経済をはじめあらゆるものを成り立たせていたので
物事が行き詰るのは明らかなのだけれど、
そこで打ち出された政策というのが
「子ども一人に毎年31.2万円の子ども手当てを中学卒業まで支給」というもの。
これって人を何だと思っているのかと感じる。

だから31.2万円の手当てをもらえるから
子どもを生もうとか、結婚をしようとか、そういう発想を導き出すことで
社会基盤を復活させるのであれば、
根本的にその社会保障される人間というモノの存在を改めて疑いたくなる。

例えば31.2万円貰えるという時代背景を受けて結婚しよう、とか
僕が言い出したら、相手は僕の発想を疑うと思う。
疑って欲しいと思う。

そういう金銭的保証の裏づけがなければ
人の人生を背負い込んで生きる覚悟がないことの裏返しなのだから。

これと同時に
その手当てというもの限りある財源の中で裂かれるもので、
自ずとその手当てを受けることによって
何かができなくなることが当然ありうる。

それを躊躇なく受け入れることが
一方で受け入れられるのか、というのもある。

手当てを出せば全てがかわるというものではないのに
そういう次元でしか答えの提示ができないことに
物事の行き詰まりが明らかかと。

別の立候補予定者は
「給与が減るのか増えるのか
わからないような不安な社会ではよくない」と
そういう誌面で語るものの、
じゃあキッパリ「減る」とは言えないんだよね。

言えば単純に考えれば「増える」という人を
多くの人が支援するのに決まっているのだから。

民主主義自体、機能することが人を幸せにするものではなし、
万全なものではないのも踏まえなければいけない。
選ぶ人もまた冷静な見識を持っているとは
ハッキリといえるものではないのだから。

posted by 小林 慶太 at 22:56| 千葉 曇り| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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